「二つの高瀬川」
 
角倉了以の顕彰碑
高瀬川畔に立つ
角倉了以の顕彰碑
 木屋町(きやまち)通二条をやや南に下がった高瀬川沿いに「史跡高瀬川一之船入(いちのふないり)」と記された石碑があります。川面には一艘の高瀬船が浮かんでおり、江戸時代に盛んだった高瀬川の舟運の様子をしのばせています。高瀬川は、安土桃山・江戸初期の豪商・角倉了以(すみのくらりょうい)が方広寺(ほうこうじ)大仏殿を再建する資材の運搬のため1611年に開削した運河で、市中の重要な運送手段として江戸時代の京都の経済に大きな役割を果たしていました。高瀬川は、一之船入を起点として木屋町通沿いを南流し、南区陶化橋(とうかばし)付近で鴨川に注ぎ、東山区福稲(ふくいね)から再び分水して伏見区の下三栖東ノ口(しもみすひがしのくち)で宇治川と合流しています。
千本通界わい
千本通界わい
 京都にはもう一つの高瀬川が流れています。嵯峨天龍寺近くの桂川から分水して東流、JR二条駅の南から南流し、伏見区下鳥羽で鴨川に注いでいる「西高瀬川」のことです。こちらは幕末維新の激動期である1863年に開通し、主に丹波地方の材木や農作物を市中に運送するために使われていました。現在でも千本(せんぼん)通界わいには多くの材木商が店を構えています。
「激動の幕末維新を歩く−高瀬川に沿って−」
 「中京の石物語(へそ石、弁慶石)」
  六角堂(頂法寺)の境内に足を踏み入れると、本堂の手前やや右側に「へそ石」と書かれた駒札があり、その傍らに中央に穴の開いた六角形の偏平な石が埋まっています。名称の由来は、石の埋まっている地点が古来より京都の中心とされていたためであり、そのため要石(かなめいし)とも呼ばれています。平安京を造営するさい、道路にあたることになった六角堂が一夜のうちに北へ五丈ほど退いたという伝説がありますが、へそ石はそのとき地面に残った礎石であるともいわれ、もとは六角通の中央にあったそうです。
 三条通麩屋町(ふやちょう)を東に入った北側に、「弁慶石」と呼ばれるやや青みがかった石があります。これは、幼少のころ三条京極に住んでいた武蔵坊弁慶が愛した石であると伝えられています。弁慶石には、最初洛北の鞍馬口にあって鴨川の氾濫によって流れついたという説や、弁慶の死後奥州に移されたところ、「三条京極へ戻りたい」と鳴動して付近に熱病が流行ったため京へ送り返された等々、さまざまな言い伝えが残されています。
 中京の御利益さん
 

天下を統一した豊臣秀吉は、淀城(よどじょう)の再建やお土居(どい)の築造など、京都の都市機能の大改造を行いました。そうした事業の一環として、寺院を集めて形成されたのが寺町通です。現在もこの周辺には多くの寺社があり、さまざまな伝説や御利益が伝わって庶民の信仰を集めています。この寺町通を中心とした中京の御利益さんをいくつかご紹介しましょう。

永福寺
永福寺(蛸薬師)

 現在は観光旅行者や若者たちで賑わう新京極通に扉を開く永福寺(えいふくじ)(蛸薬師(たこやくし) 新京極通蛸薬師下ル東側町(ひがしがわちょう))は、もと室町二条にありました。この寺にいた善光(ぜんこう)という親孝行な僧が、戒律に背いて病気の母に蛸を食べさせようとしたとき、本尊の薬師如来に助けられて病が治ったという伝説から、諸病回復の信仰を集めてきました。また、髪を美しくしてくれる御利益もあるといわれています。
 安養寺(あんようじ)(倒蓮華(さかれんげ)寺 新京極通蛸薬師下ル東側町511 075-221-4850)の本尊阿弥陀如来の台座(だいざ)は上下逆さに造られ、八枚の蓮華の花びらが下を向いた形になっています。女性を救う阿弥陀如来として信仰されてきました。
 四条通から近い染殿院(そめどのいん)(新京極通四条上ル西入ル中之町562 075-221-3648)は「染殿地蔵」と呼ばれ親しまれています。寺伝によれば、文徳(もんとく)天皇の皇后である染殿皇后がこの地蔵尊に祈ったところ、清和(せいわ)天皇を出産しました。これにちなんで安産守護の信仰が生まれ、今も多くの人々が安産の祈願に訪れています。
 「くさがみさん」と通称される善長寺(ぜんちょうじ)(新京極通蛸薬師下ル東側町518 075-221-4992)の門内正面には、阿波国(あわのくに)(現・徳島県)立江(たちえ)の地蔵と同等だといわれる立江地蔵が安置されています。子供の痘瘡(とうそう)(天然痘)平癒(へいゆ)祈願に御利益があるとされています。
 歯痛を止めてくれる御利益があるとされているのが白山(はくさん)神社(麩屋町通押小路下ル上白山町243 075-222-0173)。歯痛で悩んでいた後桜町(ごさくらまち)天皇に宮中の女官が白山神社の神箸(しんちょ)を献上したところ、歯痛が平癒したと伝わっています。
 法雲寺(ほううんじ)(河原町通二条上ル清水町364 075-241-2331)境内にある「菊野(きくの)大明神」は、古より「縁切り祈願」の信仰を集めてきました。ご神体の石は、小野小町(おののこまち)のもとへ百夜(ももよ)通いをした深草少将(ふかくさのしょうしょう)が往復の途中で腰を掛けて休んだものと伝え、思いを遂げられなかった少将の怨念によって、男女の縁を切るといわれます。
 これらの他にも、中京区にはさまざまな御利益を伝える寺社があります。地図を広げて足の向くまま訪ねてみるのも、旅の楽しみ方の一つといえるのではないでしょうか。

 
 「京友禅と堀川の水」
   室町筋は江戸時代より織物卸問屋街として栄え、長きにわたって京都の経済を支えてきました。その織物問屋が栄えた要因の一つとして、京友禅の美しさや質の高さが全国に広く認められたことがあげられるでしょう。そして、友禅染めの色合いの美しさを引き出すために不可欠だったのが、京都市のほぼ中央を南北に流れる堀川の水だったのです。
 「京友禅は水の芸術である」といわれています。友禅染めは、染めが終わったあと蒸して発色・定着させ、その後水洗いをしますが、洗う水の質によって仕上がりが大きく左右されるのです。例えば水に鉄分が含まれていると、生地がその鉄分を吸って赤みを帯びてしまいます。職人たちが行う「友禅流し」も、かつての堀川のような清流があってこそ美しく染め上がるものであったのです。
 現在も中京区では京友禅の生産がたいへん盛んです。堀川をはじめとする河川が使用できなくなった昨今、多くは屋内の人工川に澄んだ地下水を汲み上げて水洗いをし、伝統ある京友禅の美しさを守り続けています。
 「祇園御霊会(ごりょうえ)から祇園祭へ」
   「コンチキチン」という祇園囃子の音色とともに、京都には蒸し暑い夏が訪れます。京都三大祭の一つである祇園祭といえば、絢爛たる山鉾が都大路を巡行する様が特に有名であり、また、八坂(やさか)神社(東山区)の祭であることもよく知られています。
 奈良時代ごろから、疫病などが流行るたびに、人々は非業(ひごう)の死を遂げた者の祟りではないかと恐れていました。やがて貞観(じょうがん)5年(863)、疫神(えきじん)や死者の怨霊を鎮めるため、朝廷が神泉苑(しんせんえん)において崇道(すどう)天皇らの霊を祀ったのが「御霊会」の始まりとされています。その後、貞観11年にも京都で悪疫(あくえき)が流行ったことから、今度は市民たちが牛頭(ごず)天王の祟りを鎮めるため、祇園社(現在の八坂神社)の神輿をかついで鉾を立てて神泉苑へ行ったと伝わっています。このとき全国の国数に合わせて鉾66本を立てたそうですが、これが「祇園祭」の起こりであるといわれています。祇園祭は祇園御霊会とも呼ばれますが、そうした故事を起源に、年月をかけて徐々に祭りの形態を整えていったと考えられます。
 同じく貞観年間(859〜77)に疫病が流行った際、播磨国広峰(はりまのくにひろみね)(現・姫路市)から疫神の牛頭天王を東山八坂郷に迎えました。このとき神霊をひとまず壬生(みぶ)の梛(なぎ)の林の中に祀ったと伝わっています。これが梛神社の起源であるといわれ、これにちなんで「元祇園(もとぎおん)社」とも呼ばれています。また、その後神霊を八坂に移すとき、傘をかざして棒を振り、楽を奏して神輿を送ったのが祇園祭の傘鉾の始まりであるともいわれています。
 天禄(てんろく)元年(970)には「毎年の儀」となり、だんだんと趣向を凝らした山や鉾が造られるようになりました。ところが、応仁の乱(1467〜77)によって京の都は焼き尽くされてしまい、祇園祭はやむなく中断せざるを得なくなります。
 その後、明応5年(1496)頃から、ようやく町衆の手によって祇園祭は復興への道を歩み始めたのでした。やがて山や鉾を造るさいに豪華さを競い合うようになり、安土桃山から江戸時代にかけて、いよいよ盛大な祭りとなっていったのです。
 こうした長い歴史と伝統を持つ祇園祭は、今も京都の人々をはじめ、日本人の心をとらえ続けているといえるのではないでしょうか。
 →祇園祭「山鉾の位置と7月17日の巡行コース」