| 「二つの高瀬川」 | |||||
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| 「激動の幕末維新を歩く−高瀬川に沿って−」 | |||||
| 「中京の石物語(へそ石、弁慶石)」 | |||||
六角堂(頂法寺)の境内に足を踏み入れると、本堂の手前やや右側に「へそ石」と書かれた駒札があり、その傍らに中央に穴の開いた六角形の偏平な石が埋まっています。名称の由来は、石の埋まっている地点が古来より京都の中心とされていたためであり、そのため要石(かなめいし)とも呼ばれています。平安京を造営するさい、道路にあたることになった六角堂が一夜のうちに北へ五丈ほど退いたという伝説がありますが、へそ石はそのとき地面に残った礎石であるともいわれ、もとは六角通の中央にあったそうです。 三条通麩屋町(ふやちょう)を東に入った北側に、「弁慶石」と呼ばれるやや青みがかった石があります。これは、幼少のころ三条京極に住んでいた武蔵坊弁慶が愛した石であると伝えられています。弁慶石には、最初洛北の鞍馬口にあって鴨川の氾濫によって流れついたという説や、弁慶の死後奥州に移されたところ、「三条京極へ戻りたい」と鳴動して付近に熱病が流行ったため京へ送り返された等々、さまざまな言い伝えが残されています。 |
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| 中京の御利益さん | |||||
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天下を統一した豊臣秀吉は、淀城(よどじょう)の再建やお土居(どい)の築造など、京都の都市機能の大改造を行いました。そうした事業の一環として、寺院を集めて形成されたのが寺町通です。現在もこの周辺には多くの寺社があり、さまざまな伝説や御利益が伝わって庶民の信仰を集めています。この寺町通を中心とした中京の御利益さんをいくつかご紹介しましょう。
現在は観光旅行者や若者たちで賑わう新京極通に扉を開く永福寺(えいふくじ)(蛸薬師(たこやくし) 新京極通蛸薬師下ル東側町(ひがしがわちょう))は、もと室町二条にありました。この寺にいた善光(ぜんこう)という親孝行な僧が、戒律に背いて病気の母に蛸を食べさせようとしたとき、本尊の薬師如来に助けられて病が治ったという伝説から、諸病回復の信仰を集めてきました。また、髪を美しくしてくれる御利益もあるといわれています。 |
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| 「京友禅と堀川の水」 | |||||
室町筋は江戸時代より織物卸問屋街として栄え、長きにわたって京都の経済を支えてきました。その織物問屋が栄えた要因の一つとして、京友禅の美しさや質の高さが全国に広く認められたことがあげられるでしょう。そして、友禅染めの色合いの美しさを引き出すために不可欠だったのが、京都市のほぼ中央を南北に流れる堀川の水だったのです。「京友禅は水の芸術である」といわれています。友禅染めは、染めが終わったあと蒸して発色・定着させ、その後水洗いをしますが、洗う水の質によって仕上がりが大きく左右されるのです。例えば水に鉄分が含まれていると、生地がその鉄分を吸って赤みを帯びてしまいます。職人たちが行う「友禅流し」も、かつての堀川のような清流があってこそ美しく染め上がるものであったのです。 現在も中京区では京友禅の生産がたいへん盛んです。堀川をはじめとする河川が使用できなくなった昨今、多くは屋内の人工川に澄んだ地下水を汲み上げて水洗いをし、伝統ある京友禅の美しさを守り続けています。 |
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| 「祇園御霊会(ごりょうえ)から祇園祭へ」 | |||||
| 「コンチキチン」という祇園囃子の音色とともに、京都には蒸し暑い夏が訪れます。京都三大祭の一つである祇園祭といえば、絢爛たる山鉾が都大路を巡行する様が特に有名であり、また、八坂(やさか)神社(東山区)の祭であることもよく知られています。 奈良時代ごろから、疫病などが流行るたびに、人々は非業(ひごう)の死を遂げた者の祟りではないかと恐れていました。やがて貞観(じょうがん)5年(863)、疫神(えきじん)や死者の怨霊を鎮めるため、朝廷が神泉苑(しんせんえん)において崇道(すどう)天皇らの霊を祀ったのが「御霊会」の始まりとされています。その後、貞観11年にも京都で悪疫(あくえき)が流行ったことから、今度は市民たちが牛頭(ごず)天王の祟りを鎮めるため、祇園社(現在の八坂神社)の神輿をかついで鉾を立てて神泉苑へ行ったと伝わっています。このとき全国の国数に合わせて鉾66本を立てたそうですが、これが「祇園祭」の起こりであるといわれています。祇園祭は祇園御霊会とも呼ばれますが、そうした故事を起源に、年月をかけて徐々に祭りの形態を整えていったと考えられます。 同じく貞観年間(859〜77)に疫病が流行った際、播磨国広峰(はりまのくにひろみね)(現・姫路市)から疫神の牛頭天王を東山八坂郷に迎えました。このとき神霊をひとまず壬生(みぶ)の梛(なぎ)の林の中に祀ったと伝わっています。これが梛神社の起源であるといわれ、これにちなんで「元祇園(もとぎおん)社」とも呼ばれています。また、その後神霊を八坂に移すとき、傘をかざして棒を振り、楽を奏して神輿を送ったのが祇園祭の傘鉾の始まりであるともいわれています。 天禄(てんろく)元年(970)には「毎年の儀」となり、だんだんと趣向を凝らした山や鉾が造られるようになりました。ところが、応仁の乱(1467〜77)によって京の都は焼き尽くされてしまい、祇園祭はやむなく中断せざるを得なくなります。 その後、明応5年(1496)頃から、ようやく町衆の手によって祇園祭は復興への道を歩み始めたのでした。やがて山や鉾を造るさいに豪華さを競い合うようになり、安土桃山から江戸時代にかけて、いよいよ盛大な祭りとなっていったのです。 こうした長い歴史と伝統を持つ祇園祭は、今も京都の人々をはじめ、日本人の心をとらえ続けているといえるのではないでしょうか。 →祇園祭「山鉾の位置と7月17日の巡行コース」 |
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