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安政5年(1858)九月、尊攘派志士(そんじょうはしし)たちへの弾圧(安政の大獄)が始まるころから、政局は京都を中心に展開するようになり、やがて武力と陰謀の渦巻く動乱の表舞台となりました。長州藩邸や土佐藩邸などが並ぶ高瀬川界わいには、尊攘派の志士たちが身を潜め、また密議を凝らしたところでもありました。安政の大獄で志士狩りに与(くみ)した人々は、のちに攘夷派の報復「天誅」を受け、三条大橋や四条大橋近辺に晒(さら)されました。そこは交通の要衝(ようしょう)であるとともに、情報発信地として格好の場所だったからです。有数の遊興地であった木屋町(きやまち)通、先斗町(ぽんとちょう)通には志士たちや新選組も行き交い、時として白刃が舞いました。高瀬川畔はまさに幕末維新のメインストリートだったのです。
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島田左近(しまださこん)遭難の地 |
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文久2年(1862)7月、安政の大獄で活躍するなど幕府に協力した九条家の家臣島田は尊攘派に憎まれ、薩摩藩士らに襲われ逃れましたが、木屋町二条付近で斬られその首は四条河原に晒(さら)されました。 |
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桂小五郎(かつらこごろう)・幾松(いくまつ)寓居(ぐうきょ)跡 |
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幕府方の探索を逃れ潜伏する桂を、三本木(さんぼんぎ)の芸者幾松は献身的に支え続けました。 |
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佐久間象山(さくましょうざん)(右碑)・大村益次郎(おおむらますじろう)(左碑)遭難の地 |
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幕府に招かれて京都に来ていた松代(まつしろ)藩の佐久間は、元治(げんじ)元年7月尊攘派の刺客に襲われ、また新政府軍を指揮し戊辰(ぼしん)戦争に活躍した大村は明治2年(1869)9月、徴兵制などに反対する不平士族の一味に襲われて負傷、11月に亡くなりました。 |
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吉村寅太郎(よしむらとらたろう)・武市瑞山(たけちずいざん)寓居(ぐうきょ)跡 |
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土佐藩勤王党(きんのうとう)のリーダー武市が京の宿とした丹虎(たんとら)(当時)の娘と、同藩出身の吉村とは恋仲だったといいます。 |
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池田屋跡 |
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元治元年6月、新選組は尊攘派志士の集合する旅館池田屋を襲撃、志士のうち7名が斬られ、23名が逮捕、後日に7名が死亡しました。 |
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坂本龍馬寓居跡 |
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慶応3年(1867)6月に入京した坂本龍馬は、高瀬川畔の材木商酢屋(すや)(中川)嘉兵衛(かへえ)宅を自らが組織した海援隊(かいえんたい)の屯所としました。 |
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土佐稲荷・岬神社 |
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土佐藩邸に鎮守社として祀(まつ)られたもので、坂本龍馬の小像が立っています。 |
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古高俊太郎(こたかしゅんたろう)住居跡 |
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元治元年(1864)5月、新選組による桝屋喜右衛門(ますやきうえもん)こと古高俊太郎の逮捕が池田屋事件の発端となりました。 |
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